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東ゴート戦争(翻訳) その2

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東ゴート戦争(翻訳)

2008-07-18 ; 歴史雑学

何気にその2になってしまいました・・。

前回はゴート戦争が起こった原因についてまで翻訳しました。補足が非常に多かったため思ったよりかなり分量が増えてしまい、その2に続いてしまったわけです。

・ベルサリウスのゴート征服(535-540)
◆ダルマチアとシチリアの陥落
ベルサリウスは、いまや北アフリカがローマの支配地となったことで、イタリアの間に位置することになった重要な戦略拠点シチリア島にまず降り立った。シチリア島はすぐに占領され、パレルモのみで抵抗があったが12月までに収束した。
占領後、ベリサリウスはイタリア遠征の準備に取り掛かる。
ローマの成功に恐怖したテオダハドは、ユスティニアヌスの使途と会話した。
一方、行軍と侵攻はダルマチア(地図はこちら)に及んだ。
マンドス将軍(ベリサリウスは南からマンドスは北から攻めていた)は、迅速にダルマチアに進軍し、首都(ダルマチア州の州都とでも考えてくださればいいかと)のサロナエを占領する。しかし、兵力で勝る東ゴート軍はダルマチアの支配を取り戻すために攻め寄せ、マンドスの息子Mauriciusと衝突した。
マンドスは自分の部隊を行軍させたが損失が拡大し、東ゴート軍に多大な被害を与えられてしまった。さらに、マンドス自身も重症を負う。
その結果、サロナエを含むダルマチアからローマ軍は撤退し、ゴートへの侵攻をあきらめた。
536年3月、この戦勝に気をよくしたテオダハドは、ユスティニアヌスの使者を拒絶した。
これによって和平への一切の可能性がなくなった。
ユスティニアヌスはダルマチアに新たにコンスタンティヌス将軍を派遣し、ダルマチアを取り返し、ベリサリウスと両面攻撃を達成するように命令したのだった。
コンスタンティヌスは迅速にダルマチアを占拠し、東ゴート将軍Gripasは、先の戦いで獲得したばかりのサロナエを放棄した。
かつてローマ帝国が築きあげた城壁は長い戦いで破壊されていたので、コンスタンティヌスは占領した諸都市の城壁を修復した。7日後、東ゴート軍はイタリアへ撤退する。6月の終わりまでにダルマチアはローマの手に再び戻った。

※補足
1、マンドスは日本ではムンドと訳すようです。
2、テオダハドはアマラスンタ暗殺の釈明をするためにユスティニアヌスに使者を送っていますが、受け入れられず、イタリア侵攻の口実にしました。さらに親ローマ派だったアマラスンタの暗殺によってイタリア国内のローマ人が反乱を起こし、国内に軍を派遣しなければならなくなります。これを戦争準備といいがかりをつけたユスティニアヌスはシチリア・ダルマチアに進軍します。
(ローマ人の反乱は以前から予想されていたことで、それがわかっているからこそアマランタ以前の王様はローマと融和していたのです。)
ダルマチアでの勝利とカルタゴでの反乱があったため、ユスティニアヌスに強気にでますが、ダルマチアが落とされると国内で退位を迫る声が多くなります。最終的には国王に固執したためゴート軍によって殺されました。
(補足どころじゃねえなこれ・・)

・ウィティギスの躍進とローマ包囲
536年の春、レギウム(現レッジョ)を占領したベリサリウスは軍をさらに進めた。ローマ軍は、11月にはナポリを包囲し占領した。そして、12月には労せずローマに入城した。
ベリサリウスのあまりに速い占領にゴート人は驚かされた。それに加え、テオダハドの態度はゴート人を激怒させた。
テオダハドはナポリが陥落した後、廃位させられ、新しくヴィティギスが王に選出された。
ヴィティギスはヴェリサリウスのいるローマを去り、ラヴェンナに向かった。
ラヴェンナでヴィティギスはアマラスンタ(前女王)の娘マタスンタと結婚し侵略者に対抗するための兵を集め始めた。
ヴィティギスは大兵力をヴェリサリウスのいるローマへ派遣した。ベリサリウスはゴート軍に野戦で対抗する充分な兵力を備えていなかったため軍をローマにとどめた。
ゴート戦争の三分の一の期間をかけた「ローマ包囲」は、537年3月~538年3月まで一年を通して行われた。いくつかの大きな軍事行動はあったが、コンスタンチノープルからの援軍が来た後(537年4月1600人・・538年には5000人の援軍)に、守りに徹していたローマは攻撃に転じた。
ローマ騎兵はゴート軍の背後にあるいくつかの都市に襲い掛かった。
ついに、リミニが陥落しヴィティギスはラヴェンナに退却した。

※補足 「ローマ包囲」(Siege of Rome 詳しくは英語ですが、こちら
ベリサリウス軍5000(後に援軍を5000~6000くらい加えた)にヴィティギス軍45000がローマを包囲した消耗戦。詳しく書くとゴート戦争そのものの本文より長くなりますので簡単に。
1、ヴェリサリウスの偵察部隊とゴート軍がかちあう。しかしヴェリサリウス偵察部隊はゴート軍を退けローマに撤退。
2、ゴート軍攻城兵器を使い激しくローマを攻撃。市民も防衛に参加する中、ベリサリウスも射撃で敵司令官を狙う。(何気に弓の名手。何人かの司令官を射殺している)さらには、攻城兵器をひっぱる牛を集中的に弓で狙わせ、いくつかの攻城兵器を無効化した。
3、2の戦いでかなりの損害を被ったゴート軍は北方を攻囲するにとどまる。そのため南方が空いていた。ローマ市内に住む女性・子供・奴隷など非戦闘員はここから脱出する。この脱出があったため長い攻囲に耐えられた。
4、ローマ軍隙を見て出撃。ゴート軍に被害を与える。
5、ゴート軍、ローマの補給路を絶つ。ローマは飢餓に苦しみ、内通者まで出る。ベリサリウスは皇帝に援軍を要請。
6、ユスティニアヌス援軍要請に応える。しかしほんとに応えただけ・・。たった1000人とか何それ?食えるの?
7、ゴート軍も長い包囲のため飢餓と病気に苦しんでいた。ローマの援軍を見て厭戦気分が高まり、冬季の休戦に入る。
8、この休戦を逃さず、ベリサリウスはローマの交通網を整備し、ミラノの反乱を支援、ラヴェンナの背後に軍を派遣し破壊活動を行う。
9、538年東ゴート軍、ローマから撤退。ミラノ・ラヴェンナに兵力を裂き、ローマ軍別働隊(ラヴェンナを脅かした部隊)がこもる要塞を攻囲。(この兵力の移動の際の撤退の隙をついてローマ軍はゴート軍に損害を与えている。)
10、ナルセスのローマ精鋭部隊2万が到着。ローマ艦隊も到着。ベリサリウス隊も増強。これを受けて、ゴート軍はラヴェンナに撤退。しかし、ナルセスとベリサリウスの不和のためミラノの反乱はゴートによって鎮圧される。

※この戦いゴート軍が最も多かった時は10万~15万とかいたそうだ。ほんとかどうかはわかりませんが・・。(5000対15万とか。何そのファンタジー)

・ベリサリウスとナルセスの不和
ここは翻訳飛ばします。要は勝てる気分になったローマ将校は規律の厳しいベリサリウスの元からナルセスの元へ走ったりして、ローマ軍はよろしくない状態になったということです。

・ミランの攻囲と奪取
538年春、ミラン(ローマ帝国時代の後になってから、ミランはイタリアで二番目に人口が多く価値のある都市であった。ここでいうミランはミラン一帯とかそんな意味だろう)
の代表者からの嘆願を受けたベリサリウスは1000の兵力をミランに派遣した。
この兵力は、ミランを救い、パビアを除くリグリアの諸都市を解放した。
ヴィティギスはフランクに援助を要請した。それに応え、フランク軍10000がアルプスを越えイタリア北部にやってきた。ゴートの期待に反しフランクは北イタリア諸都市を略奪に走る。

長い・・・もう一回続きます。
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