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ベリサリウス(翻訳)

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東ゴート戦争(翻訳)
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某国家

2008-07-16 ; 人物列伝

以前ベリサリウスの記事は書いたのですが、英語の勉強も兼ねて英語版WIKIPEDIAを翻訳してみたいと思います。正直私の英語のレベルが低いので誤訳しまくりと思いますが・・・。

以前のベリサリウスの記事は、こちら
私のビザンツ好きはマニアックなコラボ企画を参照に。

●ベリサリウス(Flavius Belisarius 505?~565)
ベリサリウスは、ビザンツ帝国の中ではもちろん歴史上最も偉大な将軍の一人である。彼はユスティニアヌス帝の野望であり、失ってから一世紀になる「西ローマ帝国の再興」を手助けした。
彼はハンニバル・カエサル・アレクサンドロス・ナポレオンといった将軍に比べると知名度は低いが、彼の能力と実績に匹敵する歴史上の将軍は極めて少ない。(上記の4人に匹敵する)
ベリサリウスの実力を示す一つの例として、彼はビザンツ帝国よりほんの少しの支援もしくは全く支援を受けられない状態で軍事的成功を納めていることがあげられる。

・Early life and career(前期の実績・経歴)
ベルサリウスは現在のブルガリア南西部にあるサパレヴァ・バニャにあるGermane や Germania(ゲルマニア)で生まれたと言われている。
彼の一家は代々(ブルガリアの)トラキアかギリシャで生活していた(といわれている)。
彼は若くしてローマ兵となり、ユスティヌス一世の親衛隊となった。527年にユスティヌス一世が亡くなると、新皇帝ユスティニアヌス帝によって対ササン朝に当たる東方部門の司令官の一人に任命された。彼はすぐに自らの高い能力を示し、すばらしい指揮で兵力に勝るササン朝の軍隊を打ち破ってみせた。
イベリア戦争中の530年の6月、ダラ(DARA)の戦いでササン朝に対し驚異的とも言える勝利をもたらした。翌年531年、ユーフラテス川付近で発生したカラコルムの戦いでもササン朝を打ち負かした。
この戦いの結果、ササン朝ペルシアに「永遠の平和」を誓わせ、平和の代償として貢納金を納めさせることを約束させた。
532年、ユスティニアヌス帝の(超拡大政策で困窮していた市民が蜂起した)退位を迫るニカの乱を鎮めた時に最高司令官に任命された。
鎮圧を命じられたベリサリウスは、IllyriaとMundusの精鋭兵、ナルセスといった将軍の手助けを受け(市民が蜂起していた)長円形競技場になだれ込み、市民を血祭りにあげた。この乱で亡くなった市民は30000人にも及ぶといわれている。

◆軍事活動
・対ヴァンダル(詳しくはヴァンダル戦争を参照にしてくださいと記載。いづれ翻訳できればやります。)
533-534年、ユスティニアヌス帝に命じられ対ヴァンダルに向け、長い道のりを行軍した。
(なんといってもヴァンダルは北アフリカですから海も越えないと・・ヴァンダル王国の地図は、こちら
ビザンツ帝国は政治・宗教・戦略の理由からこのような従軍を行った。
ローマの血を引くヴァンダル王ヒルデリックが現ヴァンダル王ゲリメルによって廃され、殺害され王位を簒奪された。とビザンツは主張し、戦争の口実とした。
その上、アリウス派のヴァンダル王国は長い間ギリシア正教会からは異端とされコンスタンチノープル司教はそれを改めるようにヴァンダルに通達していた。
(この時代、キリスト教の最大権威はギリシア正教会。ローマ教皇もコンスタンチノープルに一応従っていた。いちゃもんつけてアリウス派は異端になっていた。)
また、ヴァンダルはビザンツ商船を狙った海賊行為を行い、西側の商取引に損害を与えていた。
ユスティニアヌス帝は北アフリカのヴァンダル王国をコントロール(支配)したかった。というのは北アフリカは西地中海の通商に極めて重要な土地だったからだ。
533年の晩夏、ベリサリウスはアフリカに向けて出向し、レプティスマグナの付近に上陸した。
彼はヴァンダルの首都カルタゴに向けて沿岸の道に沿って行軍してきた理由を見失うなと船団に命じた。彼は街道を移動することを避けてきた、なぜなら彼は35年前の北アフリカ戦争の再現をしたくなかったからだ。(私の訳がたぶんよくないです。意味不明になってるね)
カルタゴから10マイル、ヴァンダルのゲリメルとベリサリウスはついにかち合い、戦争になる。(アド・デシミウムの戦い。533年9月13日)
ビザンツ側の敗北に流れが傾いていたように見えた。ゲリメルはいい位置(戦術?)を選び、基幹道路(街道)に沿ってビザンツ軍を打ち負かしていた。しかしながらビザンツは、基幹道路の左右よりヴァンダルを挟み込み優位に立つ。この攻撃の後、ベリサリウスは軍を再結集しヴァンダルを打ち破りカルタゴを占領した。
533年の暮れ(12月15日)にチカマルムの戦いで再びビザンツは勝利し、534年ゲリメルはパプワの山で降伏する。またゲリメルはローマの北アフリカ州が復活することを認めた。
この功績によってベリサリウスはコンスタンチノープルでの凱旋式をすることを認められた。
"Gloria Romanorum"という版を押されたメダルが、彼の功績をたたえた。ベリサリウスはまたコンスル(ローマの役職)になった。(534年)しかしコンスルはビザンツに残る古代ローマの遺産であり、儀式の一つに過ぎなかった。

・対東ゴート王国(Against the Ostrogoths)・ゴート戦争535-554
ユスティニアヌスは西ローマ帝国の再興を目指していた。535年、ベリサリウスに東ゴート王国を攻めるように命令した。
ベリサリウスは迅速にシチリアを確保し、イタリアに渡った。536年ローマとナポリを獲得した。
翌年、東ゴートよりローマの防衛に成功し(一行で書いてますがこの戦いもものすごい。5000のベリサリウスと45000の東ゴートの対決)、北へ移動しミラノを占領、東ゴートの首都ラベンナを包囲した。(540年)
そしてラベンナは落ち、東ゴート王ヴィティギスは捕虜となる。
ラベンナが落ちる少し前に東ゴートは、ベリサリウスに西ローマ帝国の皇帝になるよう進言したが、ベリサリウスは彼らの提案を受け入れたかのように見せかけ、ラベンナに入城。
ラベンナに入った後、べリサリウスは迅速にゴート王ヴィティギスを捕らえ、ラベンナを制圧した。
そして彼は、「ユスティニアヌス帝の名においてラベンナを占領した」と宣言したのだった。
(しかしよくこんな冷遇してくる皇帝のために尽くせるわね)
このゴート王国の提案はユスティニアヌス帝の猜疑心をあおり、ベリサリウスはビザンツ帝国東部戦線である(ササン朝との交戦で厳しい状態にあった)シリア州の対ササン朝戦役に呼び戻されることになった。541-542年にかけてベリサリウスはササン朝と交戦した。
その結果、休戦協定を結び5年間の不可侵条約を獲得したのだった。
544年ベリサリウスは戦況の激変したイタリア戦線に戻る。
541年東ゴート王国はトーティラを新しい指導者として選んだ。そして彼は精力的に対ビザンツ帝国戦争を進めた。その結果北イタリアを奪い返し、ローマをも奪取したのだった。
(正直もうすでに体勢が決していた。残存兵だけではトーティラに対抗するのは不可能)
ベリサリウスは短期間でローマを回復させるよう努めたが、これはうまくいかなかった。というのは、548年にはユスティニアヌス帝は一切の援助をしなかった。そればかりか、自分のお気に入りの宦官ナルセスに指揮を交代させたのだった。
ナルセスは皇帝からの信頼と援助の両方を獲得し、対ゴート王国に成功をおさめた。
そのためベリサリウスは軍を解雇された・・・・。

・人生の後半の戦役
首になったベリサリウスは559年の終わりに呼び戻された。それはスラブ族・ブルガリア人の侵入を受け、彼らがコンスタンチノープルに迫る勢いだったからだ。
ベリサリウスの最後の戦役となったこの戦いで、彼はブルガリア人を破り、彼らをドナウ川の向こうへ退去させた。
562年、ベリサリウスは収賄罪の罪で裁判にかけられた。収賄の罪はでっち上げだった。しかし彼は有罪になり牢に放り込まれた。
とはいえ、少し後になって自責の念から、ユスティニアヌスは彼を許し、牢屋から出した。そして彼の名誉も回復した。
ベリサリウスのことを書いた「秘史」の最初の5章は、ベリサリウスは良い夫だったと書いている。

かなり微妙な翻訳となってしまいましたが・・・・、私の知っている史実と少し違う部分が多々ある・・。きっと誤訳ですね。
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Comment

アーカントス : 2008年07月17日(木) 03:49 URL edit
ラヴェンナと言う文字をみて反応。
俺のブログで丁度、ラヴェンナの戦い書いたから、もし良かったら
見に来てチョ
めけ : 2008年07月17日(木) 10:39 URL edit
提督>>
すでに見てたりwあひゃひゃひゃは。
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