アルメイダとアルブケルケ::人物列伝
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アルメイダとアルブケルケ

2005-07-30 ; 人物列伝

さて、ポルトガルのインド・マラッカ諸島航路確保の立役者を二人紹介したいと思います。
1498年にガマがインドに到達したものの、ポルトガルは、ゲーム内ポルトガルのイベントでもあったように、イスラム教商人たちがいるため、期待していたほどの香料貿易ができずにいた。
そこで、インド方面のイスラム勢力を弱体化もしくは駆逐するために、ポルトガル国王マヌエル一世は、優秀な軍人をインド総督(副王)として派遣することを決意。
こうして選ばれたのが、フランシスコ・デ・アルメイダであった。

●アルメイダの軌跡
1496年のグラナダ(スペインに残っていたイスラム最後の王朝)攻防戦において活躍したアルメイダを、ポルトガル王マヌエル一世は気に入り、彼をインド方面の総督(副王)に任命する。また、その任期は3年であった。
1503年3月息子ととにリスボンを出発したアルメイダは各地にポルトガルの拠点を建築したが、彼が拠点にした要塞はコチンであった。
そうして、イスラム勢力を弱体化させるため、マムルーク朝・カリカット勢力と交戦する。
1506年にアルメイダは、カリカット連合を打ち倒す。
しかし、その戦いで息子を失ったアルメイダは復讐に燃えることになる。
そのため、彼の任期が過ぎ、後任のアルブケルケが到着しているにもかかわらず、ポルトガル王マヌエル一世に任期の猶予を求めた。
そうして、1509年にクジャラート・カリカット・マムルーク朝連合軍を破る。
アルメイダは復讐を果たすも、後任のアルブケルケに総督の地位をゆずろうとしなかった。これは、アルメイダとアルブケルケのインド方面の統治手法が正反対だったためであった。
そんな理由から、アルメイダはアルブケルケを投獄するが、国王の使節コウティニョによって説き伏せられ、地位を譲って、リスボンへの帰国の途につく。
しかし、喜望峰近くで食糧補給中に現地部族に襲撃され、命を落とす。

●アルメイダとアルブケルケのインド方面統治方針
□アルメイダ
海上活動を重視し、根拠地は最低限度にするべき
□アルブケルケ
根拠地を通じて、インド貿易を独占しよう

●アルフォンソ・デ・アルブケルケ
大航海時代ポルトガルの最高の軍人といわれる。大航海時代においても彼は最高クラスの軍人の一人であろう。彼の実績はハイレディンやドレイクと肩を並べる。
1503年にインド方面に派遣されたアルブケルケは、素晴らしい軍事的才能を発揮する。
1507年にはアラビア海のソコトラ島を占領。同年に香料交易の一中心地であったホムルズを占領(その後ホムルズからは一時引き上げる)。
1509年インド総督に任命されるが、一時、前任のアルメイダに投獄されてしまう。
しかし、ポルトガル使節のおかげで釈放され、インド総督に就任。
1510年に一時、イスラム勢力下のゴアを占領したものの、体勢を整えるためいったん放棄する。11月には再占領。
1511年にはマラッカに上陸し、現地のイスラム勢力に要塞の建築費を求めたが、受け入れられなかったため、マラッカを攻撃。8月には占領。
こうしてアルブケルケは、インド・マラッカ諸島に渡る、ポルトガルの海上帝国の実現にむけて数々の功績をあげた。
しかし、1515年王がアルブケルケの政敵をインド総督に命じたため、絶望し、ゴア付近の海上でなくなった。

●ゴア
ポルトガル最大の要塞都市。ポルトガル殖民地が次々にオランダに占拠されていくなか、ゴアだけは一度も他勢力に敗れることなく生き残る。
イギリスがインドを植民地化した際にも、ゴアはポルトガルの植民地として認められる。

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