バルト海の興亡シリーズ::長編まとめ
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バルト海の興亡シリーズ

2004-05-31 ; 長編まとめ

※ご注意
この記事は以前書いたもののまとめになります。現在試しにやってみたものです。

生物の歴史シリーズがようやく完結しましたので、次は北欧の歴史をざざっと教科書的に見てみたいと思います。
DOLの中でもコペンハーゲンやらリガやらいろいろ出てきます。
あの辺りの歴史を見てみます。

その前に、以前書いたもので参考になる記事をあげておきます。
ノルマン
大航海時代の東ヨーロッパ
赤毛のエイリーク

●ノルマンの脅威
非常に戦闘能力の高かったノルマン人はイングランド・フランス両国にとって特に脅威であった。
フランスでは、西フランクの時代からパリを包囲される(885年)など侵入に苦しみ、ロロの兜で有名なロロを首領とするノルウェーの一波は、北フランスへ侵入し、セーヌ川河口一帯を占領するまでに至る。これに対し西フランク王シャルル3世はロロにセーヌ川下流の支配を認め、ノルマンディ公に封じることで事態を収拾する。
一方のイングランドはフランスより状況は深刻である。9世紀後半には西南部のウェセックスを除きノルマン人に占領されてしまう。この苦渋の時期に王についたアルフレッドはデーンロー地方(イングランド北東部)を除く地域を取り戻す。しかし、11世紀にノルマン人のイングランドによる虐殺事件をきっかけにして、再びノルマン人の攻勢が激しくなると、今度は支えきれずデンマーク王カヌートによって1015年に征服されてしまう。余談ではあるが、このカヌート、イングランド王、デンマーク王、ノルウェーとスウェーデンの一部を征服する大帝国を築き上げた。
カヌートの大帝国は長続きせず、彼のデーン朝はわずか三代で滅びる。しかし、1066年ノルマンディ公ウィリアムが再びイングランドの征服を成し遂げる。これによって、フランス王の家臣であるノルマンディ公がイングランド王を兼ねるという非常事態となり、長きにわたる英仏抗争の始まりとなったのだ。
一方、ノルマンの原住地はどうなったのかというと、ノルウェー(9世紀)・デンマーク(8世紀)・スウェーデン(10世紀)の三王国が成立。
これらの国家もお互いに争いを続けることになる。
この争いは14世紀に決着がつく。デンマーク女王マルグレーテが1392年にカルマル同盟という同盟を結ぶ。この同盟は、デンマーク王女マルグレーテがノルウェー王と結婚し、デンマーク・ノルウェー女王となる。その後、スウェーデン王との争いに勝利し、スウェーデンに三国が共通の君主を頂くことを認めさせる。この三国の王を兼ねることを認めさせた同盟がカルマル同盟である。
この同盟は大航海時代に解消される(1523年)。原因はスウェーデンの独立であった。この後、デンマーク海上王国・バルト海の雄スウェーデンと両者とも強国の時代も存在することに。

★その2 列強との関わり
これから、スウェーデンとデンマークについてお話するのですが、この二カ国はあくまでバルト海という限定された地域での精強の話です。
彼らがイングランドなどの強力な国家ほどの国力を持ってはいないことを頭の隅にでも入れておいてください。

●海上帝国とは?
聞きなれない言葉なので、ポルトガルの場合を見てみよう。
ポルトガルはエンリケ航海王子の下、ヴェルデ岬まで航海を進軍。1445年アルギンに商館を建てる。そして、西アフリカに要塞を造るなど沿岸地域を支配下に置く。
ディアスによってケープへ到達。ガマによってインド航路が確立されると、アルメイダ・アルブケルケ(彼らについては、こちらを参照にしてください。ゲーム内でも登場しますよ。)の活躍によって、東アフリカ・紅海・インド・マラッカ諸島に拠点を築き上げることに成功する。
ここで注目したいのは、彼らの支配は沿岸部に限られ、あくまで現地との交易を補佐するための支配だったこと。
海上帝国とは、
「領域支配に重点をおかず、海上覇権を確立すること。」
である。
こうすることによって、自国の貿易を確固たるものにしたというわけだ。
一方、ポルトガルと並ぶ大航海時代の大国スペインは海上帝国とはいわない。スペインは、中米地域の銀・金を目的とし、現地労働力を使役し領域支配を行った。我々が想像する植民地支配がスペインの支配にあたるといえばわかりやすいと思われる。
また、他に有名な海上帝国としてポルトガルの後釜に座ったオランダがあげられる。

●デンマーク海上帝国
これを語る前に、デンマークは1397年以降カルマル同盟の盟主としてスウェーデン・ノルウェーを実質支配下に置いていた。(少し語弊があるが気にしない。)しかし、1523年スウェーデンがカルマル同盟からの脱退を宣告して独立すると、デンマーク・ノルウェーはこの後も1814年ノルウェーがスウェーデンに割譲されるまで続くことになる(これも語弊があるが気にしない方向で)。
一般的に、デンマーク=ノルウェーといわれるこの国の支配地域は、デンマーク・ノルウェー・アイスランド・グリーンランドである。
さて、話をデンマーク海上帝国へ戻そう。
17世紀から19世紀に渡り存続したとされるデンマーク海上帝国はポルトガルやオランダ海上帝国とはかなり赴きがことなる。
デンマークが大航海時代以降、オランダ・イングランド・フランスなどの超大国相手に海上覇権を握ることは事実不可能であった。
1588年に名君と誉れ高いデンマーク王クリスチャン4世が王位につくと、彼は様々な改革を進める。代表的なものをいくつか羅列すると、
1、オランダ人技術者を招き、軍船・城塞の建造・建築を進めた。(例えば軍船は数が彼の在位から10数年で3倍になった)
2、デンマーク東インド会社の設立。
3、英蘭との友好関係の樹立。
4、スウェーデン・グスタフアドルフとは全体的に不利だったが、最初期のカルマル戦争には勝利。スウェーデンのカルマル地方の要塞を占領することに成功し、返還を条件に多額の賠償金を支払わせた。(しかし、カルマル地方を領有することはかなわなかった。これは、スウェーデンの名宰相オクセンシェルナの外交手腕にやられた感がある。)

この中で今回重要なのが2と3の項目。デンマーク東インド会社は、英蘭との友好関係の下、西アフリカ沿岸や西インド諸島などに植民地を築くことに成功する。スウェーデンによってバルト海の覇権を失ったとはいえ、この植民地を基盤とした外界との貿易によって、デンマークの国力は維持されてきたのだ。
一方アドルフによって強国となったスウェーデンは、海上帝国の建設に失敗している。英蘭との友好関係を築くことが、どれだけ海上帝国の建設に必要なことかわかるのがスウェーデンの失敗だといわれている。

ともあれ、デンマーク海上帝国は1800年まで存続することになる。この帝国の終焉は英国との友好関係の消滅にあった(武装中立同盟に入ったことでイギリスと敵対関係に)。イギリスとの対立の結果、デンマーク艦隊は翌年早々、イギリス艦隊に破壊される。
最終的には全てイギリスに海外植民地を占領され、デンマーク海上帝国は終焉を迎えたのだ。

次回は、スウェーデンについて見てみます。何回か名前が登場したアドルフ様の活躍を中心に・・・

★その3 アドルフの野望
●スウェーデンという国
スウェーデンはデンマークとの争いの敗北によって、カルマル同盟に組み込まれた。このくびきを脱すまで、スウェーデンという国名はあるが、独立国家ではなかった(グスタフの家系ヴァーサ朝時代に独立を果たす)。
スウェーデンで有名な王といえば、バルトのライオンことグスタフ・アドルフとナポレオン時代のフランスの名将ベルナドットが即位したことで知られるカール14世ヨハンの二人だろうか。ナポレオン時代を語るのはこのブログの趣旨に反するので、語ることは今後ないと思われる。
前置きが長くなったが、主題を・・・。


簡素だが、しっかりとした外観で歴史ある建物とはっきり分かる洋館に出迎えてくれたのは、品のいい執事風の初老の男性だった。
彼は、私に上品な紅茶を淹れながら、グスタフ・アドルフのことについて語り始めた。

お久しぶりです。ハミールでございます。今日はアドルフ閣下のことについて聞きたいということでしたな。
バルトのライオンやら獅子王といわれた閣下は、世間では名君といわれております。フリードリヒ陛下(参照はこちら)とは比べようもなく知名度も高い方でございます。
アドルフ閣下は、幼少のころから聡明・天才肌な方でした。なんと9ヶ国語をマスターし、それぞれが支障なく話せるレベルだったのですよ。(陛下と比べると・・・)9歳にして公務をこなし、15歳には議会での演説までこなしておられます。
病気がちだった父が亡くなると、スウェーデン王として即位します。このときわずか17歳。

※この時のスウェーデンの対外状況を簡単にまとめておくと
◆対デンマーク
デンマークとは、ヴァーサ朝(グスタフはヴァーサ朝6代目)の初代グスタフ・ヴァーサはカルマル同盟を脱し、独立したため、デンマークはスウェーデンの地を失っていた。
ここからはさらに余談。グスタフ・ヴァーサは、元々スウェーデン独立派の貴族で、デンマーク王によるスウェーデン人の粛清(ストックホルムの血浴)が起こると、農民と共に蜂起し、これが成功する。その後スウェーデンは独立を果たし、彼は摂政に選ばれるが、その後国会より国王に選出される。こうしてヴァーサ朝時代が始まったのだ。
◆対ポーランド
ポーランドとは、同じヴァーサの血を引く王が就いていた。ヴァーサ朝代3代目ヨハン三世の息子ジギスムントは、ジグムント三世としてリトアニア・ポーランド連合国で即位。1592年にはスウェーデン王として即位。そして、宗教的な問題でスウェーデン本国と対立(ポーランドはカトリック。スウェーデンはプロテスタント)、そこで元摂政カールとの争いに敗れ、ポーランドに帰国。1599年にはスウェーデン王位を剥奪される。その後スウェーデン・ポーランド戦争終結までスウェーデン王位を主張する。
◆対ロシア(モスクワ大公国)
ポーランドとスウェーデンが歩み寄った原因はロシアにあった。ロシア
とリヴォニア戦争(これもいずれは書きます。今回書いた方がいいのかも)の際に同盟し、後のジグムント三世の選出につながる。
ロシアはこのころ大動乱時代という時代にあたり、政情が非常に不安定だった。これに介入したポーランド・スウェーデンと争うことになる。

長くなったので、ハミールが語りはじめたとこですが、ここで一旦きります

★その4 アドルフの野望その2
ハミールの語りで行こうと思ったのですが、話がややこしすぎるため、わかりやすく書いてみます。

●アドルフ閣下即位す
1611年に若干17歳で即位したアドルフ閣下は、即位前からもその才能を発揮してました。
驚異的な言語に対する才能については前回お話したとおりですが、王子の時代にロシア帝国の内乱に介入しています。
この介入は閣下の即位後も続けられ、閣下は「ロシア皇帝位」をロシアに要求しています。
ロシアとは最終的に、皇帝位放棄の代償としてカレリアなどの領土を獲得しています。(1618年ストルボバの和約)
ロシアにおける閣下の主張は、ロシアにとっては意味不明の要求だったに違いありません。しかし、その意味不明の要求を一方的に正当化し、どなりちらすことでカレリアを獲得したことは素晴らしい閣下の才能でございます。
さて、ところ変わってデンマークとのお話です。
デンマークとは、ヴァーサ朝がスウェーデンとして独立して以来犬猿の仲・・・。
デンマークとのお話をする前に、閣下の即位と同じくして、閣下と共に片時も離れることなくスウェーデンに尽力することになる名宰相が側近として召抱えられます。
彼の名は、オクセンシェルナ。
超がつくほどの冷静沈着・頭脳明晰、弁論にたけ、その言葉巧みさは並ぶものがいませんでした。
閣下は、宰相とは逆に血気盛んで、非常に好戦的な人物でした。
閣下にとって、オクセンシェルナは無二の人物であり、最も信頼し常に彼を伴っていました。
では、デンマークのお話に戻ります。
対デンマークとは閣下の即位間もなく戦争が始まります。デンマークの名君クリスチャン4世は、陸軍を増強し、スウェーデンのカルマル地方に侵入します。スウェーデンも反撃を試みるも、この地方の主要な要塞はデンマーク軍に占領されてしまいます。
戦争経過だけを見るとスウェーデンの完敗なのですが、ここで辣腕をふるったのがさきほどのオクセンシュルナ。
彼はイングランドに調停を頼み、デンマークに賠償金を支払う条件で、カルマル地方からデンマーク軍を撤退させることに成功します。
通常、完敗すると領土を割譲するのがこの当時よくあることですが、オクセンシュルナは、巧みな駆け引きで、この敗戦を実質引き分けに持ち込んだのでした。(上記のロシアの場合は、スウェーデンが領土をもらってますね。)


●アドルフ閣下勇躍する
即位後まもなくの戦いでデンマークに苦戦するも、宰相オクセンシェルナの活躍でことなきを得たスウェーデンでした。
閣下が即位されたころは、スウェーデンはまだ近代化されておらず、財政も切迫していました。
しかしながら、スウェーデンはどうしてもけりをつけなければならない相手がいたのです。
同じヴァーサ朝の君主であるリトアニア・ポーランド連合王国(以下ポーランドと記載します。)のジグムント三世との争いです。
ジグムント三世は、正当なヴァーサ朝の主です。ハプスブルク家のようにいろんな国の王様になることは当時として戦略的にあたりまえのことでしたので、ジグムントもスウェーデンの王様に即位します。
しかし、彼はカトリックであったため、プロテスタント国家であるスウェーデンは彼を王として迎えいれたくなかったのです。
こうして、スウェーデンは叔父のカールを王として即位させ、カール九世とします。もちろんこれに反発したジグムントは、スウェーデンに侵攻します。それを撃退したスウェーデンは、完全にジグムントとたもとを分かつことになります。仕返しとして、カール九世は、リガ(あのリガです。当時のポーランド王国は巨大な領土を持っていました。)に攻め入りますが、あっさりとポーランドに撃退されてしまいます。
さて、閣下が即位した当時には、ロシア・デンマークとも交戦状態にありました。この二国とは、ロシアからは領土を奪うことに成功し和睦。デンマークには苦戦しますがとりあえず和睦という結果になります。
こうなると、犬猿の仲であるポーランドとの争いは必至の情勢になってきます。
この争いを見る前に、国内について見るべきことがあります。
閣下は、オランダの軍隊を参考に近代的な軍隊を創り上げることに尽力します。(当時のオランダは世界最強を欲しいままにしていました。当時の巨大国家スペインを叩き潰したのもオランダです。)
そして、国内は製鉄所が並び立ち、最新鋭の兵器・軍船が建造できるようになります。
かの有名?なヴァーサ号もスウェーデンの威信をかけて建造されます。
(もちろんスウェーデンに優れた造船技術をもった人材は育ってませんので、オランダから造船技師を招集して造ることになります。)
ヴァーサ号は排水量1,210トン、船体長さ47.5m、最大幅11.7m、高さ50m、帆数10枚の帆船で大砲64門を備えた堂々の一級戦列艦です。
当時としては、最高クラスの戦列艦でした。
ヴァーサ号は皆さんもご存知のとおり?、出向後間もなくストックホルムの湾内で沈んでしまいます・・・・・。
ともあれ、軍隊の近代化を推し進めたスウェーデンは、ポーランドといよいよリガで衝突します。
結果は最新式の装備で固めたスウェーデンの圧勝でした。しかし戦争は一時休戦となります。それは、史上初めての国際戦争といわれるドイツ30年戦争がはじまったからです。

●アドルフ閣下ポーランドと勇戦す
ドイツ三十年戦争についてここでは深く語ると、全く別の話になってしまうので、三十年戦争については、断片的に触れることにする。
ドイツ三十年戦争のきっかけは、この時代のヨーロッパにありがちなプロテスタントを認めた先代の王の後に熱狂的なカトリック教徒の王が王位につき、プロテスタントを弾圧するというよくある流れから始まる。
フス戦争の後、プラハではプロテスタントとカトリックの妥協が行われた。(時代的には、このあたりがフス戦争のことを書いてます。以前にも言った気がしますが、フス戦争についてはいずれ書きます。)
そこに熱狂的なカトリックの王様フェルディナンド二世がボヘミア(プラハのあるとこです)王につき、プロテスタントを弾圧し始める。
さらに、彼が神聖ローマ皇帝になるとボヘミアの反フェルディナンド派は危機を感じ、ボヘミアにフリードリヒ五世というプロテスタントの王を立てる。
もちろん、黙っていないフェルディナンドは自身のオーストリア・ハプスブルク家の権威を元に、カトリック諸侯であるスペイン・ハプスブルク家、バイエルン公などを味方につけ名将ティリー伯(甲冑をまとった修道士という異名を持つ)を司令官にボヘミアに攻め込む。
これに対し、ボヘミア諸侯連合はたいした味方もつけることができず、
大敗し、フリードリヒ五世は廃位となった。
この後にハプスブルク家の対応がまずく、戦争はこれで終わらず長期化することになってしまう。
1624年フランスの名宰相リシュリューは、やりすぎ感があったハプスブルクに警戒を強め、反ハプスブルク同盟を呼びかける。これに、イギリス・オランダ・スウェーデン・デンマークが参加する。
この結成のため、グスタフは先のポーランドとの戦争を中断したのだ。
しかし、禍根がありすぎるデンマークとの同盟はうまくいくはずがなく、スウェーデンはドイツ三十年戦争から一旦手を引く。(この後、デンマークのクリスチャン4世は三十年戦争に介入する。そして敗北する。戦闘経過については、この記事の最後にでも。)
前置きが長くなったが、三十年戦争から手を引いたスウェーデンはポーランドとの戦いを再開する。
1625年リガのあるリヴォニアに再び侵攻し、今回もあっさりポーランド軍を撃退してみせた。しかし、ポーランドはこの敗戦でも引き下がらず、戦局はポーランド本土決戦と推移する。
当時ポーランド領であった東プロイセン(ダンチヒあたり)に進軍したスウェーデン軍は、ここでもポーランド軍を敗走させる。
このままスウェーデン軍の進撃が続くものと思われたが、バルト海南方での海戦(オリバの海戦)でスウェーデン軍は敗退し、戦局はスウェーデンが攻勢なものの膠着化する。
このような状況で、両国民は長年の戦争に対し不満を募らせ始める。これに対し、グスタフはポーランドに対し自己の王位継承問題(これについては、過去記事のほうを見てください。)に、区切りをつける形での停戦が可能となっていたので、両国は停戦することになる。

●スウェーデン再び参戦する
ドイツ三十年戦争の第一ラウンドである、ボヘミア貴族の叛乱は神聖ローマ皇帝フェルディナンドによって静められた。
しかし、その後の対応が悪く、露骨に勢力拡大+プロテスタント排除のオーストリア・ハプスブルク家フェルディナンド(神聖ローマ皇帝フェルディナンド)に反発は必死の情勢であった。
こんなおり、長らく空位になっていた司教区にデンマーク王クリスチャン4世(プロテスタント)が息子を帝国内の司教職に就けるようフェルディナンド(カトリック)に要望したところ、それを露骨に断っただけでなく、先の戦いで活躍したティリー伯をザクセンに進駐させたのだ。
これに対し、デンマークはフランス・イギリス・スウェーデン・オランダの支援を受け、1625年にドイツに介入する。(当初はスウェーデンと共同で介入したのだが、犬猿の仲である両国の連携は上手くいかずに、スウェーデンは手を引き、ポーランド紛争に当たることになった。)
イギリスの資金提供を受けたデンマークは、著名な傭兵隊長二人を雇い入れ(ブラウンシュバイクとマンスフェルト)、プロテスタント側として参戦する。
デンマークの参戦によって、常備軍だけでは対応不可能と見るや、火を噴いている国庫を気にしているわけにもいかず、フェルディナンドはこちらも傭兵隊長ヴァレンシュタインを雇い入れる。(ヴァレンシュタインは国庫が不足している神聖ローマに対し、私兵を提供し、総司令官に任命されている。)
戦争がはじまってみると、プロテスタント側は、デンマーク王と二人の傭兵の間で意見がまとまらず、結局三者が別々の指令権の元に行動するというとんでもない愚挙にでる。
これに対し、ティリー伯がデンマーク王を破り、ヴァレンシュタインが傭兵隊長二人を破って、デンマークは守勢にまわる。
ティリー伯とヴァレンシュタインの勢いは止まらず、デンマークの申請ローマ帝国領であるポンメルンなどを占領しただけでなく、デンマーク本土にまで上陸・蹂躙。
これで窮地に陥ったデンマークはプライドを捨てスウェーデンに助けを求める。アドルフはこれに答え、デンマークとスウェーデンの同盟が成立し、からくも神聖ローマ帝国軍を退けたのだった。
こうして、デンマークと神聖ローマの間で和約が成立し、デンマークの三十年戦争は終わった。
次にいよいよスウェーデンの三十年戦争への介入が行われるのだ。

●ヨーロッパを震撼させたグスタフ軍
すぐ沈んだとはいえ、一級の戦列艦を世に送り出し、ヨーロッパに海軍力を誇示して見せたスウェーデンは、国内でもオランダ・イングランドを参考に最新鋭の兵器を製造・装備する。
一方、神聖ローマ帝国・ハプスブルク家は全体として、この時代最新鋭兵器に負け越している。テルシオを開発し、いち早く技術的優位に立ち、イタリアでフランスを破り、中米を征服したスペイン。
しかし、オランダ・イングランドの一歩進んだ兵器・帆船の前に最大の列強国であったスペインハプスブルク家は敗れる。
また、海外へ進出せず、国内の宗教戦争に区切りをつけ、リシュリュー・マザランといった名宰相の下、ヨーロッパ最大の国力をつけたフランス。
こうした背景もあった、スペイン・オーストリア(神聖ローマ)の両ハプスブルク帝国もこの時代にあって、絶対優位の立場ではなかったのだ。
それを踏まえた上でも、今なおハプスブルク家は、ヨーロッパでも屈指の列強国であっただろう。
神聖ローマ・ハプスブルクについて軽く触れたところで、本題のグスタフ閣下に話を戻す。
スウェーデンは、旧教国フランスから資金援助を受け、新教徒の解放という名目で、神聖ローマ帝国に宣戦する。(これは、ハプスブルク家の行き過ぎた専横に対してフランスが警戒したため。)
スウェーデンはまず、北ドイツにある自国領を安定すべくオーデル川流域をあっさりと占拠することに成功。
しかしここからが上手く進まない。スウェーデンの勢力強化を警戒する新教の諸侯(ザクセン公や後にドイツを建国するブランデンブルク辺境伯など)は、グスタフを快しとしなかった。そのため、スウェーデンはオーデル川流域を占領したものの、ここより先へ進むことができずにいたのだ。
しかし、形勢を一変する事件が起きる。
長年続く戦争で疲弊する神聖ローマ帝国軍は、食糧難に陥っていた。そして、こともあろうにマルデブルクという都市で掠奪・虐殺行為を行ってしまったのだ。そのため、同盟を渋っていた新教の諸侯らは、スウェーデンと同盟を締結する。
こうして、ようやくスウェーデンは神聖ローマ軍と戦端を開くことができたのだった。
そして、ライプチヒの北で両軍は激突する。この戦いは最新鋭の兵器を揃えたスウェーデン軍の圧倒的勝利に終わる。続く、レヒ川の戦いでもスウェーデンは神聖ローマ軍を完膚なきまでに叩き潰す。
神聖ローマ軍は、この敗戦で敗北より手痛い損失を受けている。先の戦いで活躍した名将ティリー伯がここで戦死したのだ。
優秀な指揮官を失った神聖ローマは、苦慮の末、強欲すぎて手に負えず総司令官を首にしたヴァレンシュタインを再び招聘する。
このときのヴァレンシュタインの神聖ローマに対する要求は、まさに強欲であった。
「軍の全権、和平交渉権、条約締結権の全面委任とハプスブルク帝国領と選帝侯領の割譲」(WIKIより)
この条件を受け入れ、神聖ローマにヴァレンシュタインは戻ってきたのだった。
しかし、いかに優秀な指揮官といえども、先の戦いとはかってが違っていた。というのは、兵士の質である。前回、ヴァレンシュタインは自らの私兵を持って神聖ローマに協力し、最高司令官の地位を得たとあった。彼の私兵はよく訓練された上等の兵士たちであったが、今回ヴァレンシュタインが率いた兵は、神聖ローマの脆弱な兵士・装備であったのだ。
このような不利がありながらも、最新鋭の装備で固めたスウェーデン軍にヴァレンシュタインは戦端を開くのである。
リュッツェンで両軍は激突し、26000の神聖ローマ軍に対し、スウェーデン軍は16000であったが、この時代の戦争になると、問題となるのは数ではなくなる。装備の質と戦術と指揮官の能力だ。
戦争当日、リュッツェンは濃霧に覆われており、視界がかなり悪かった。グスタフ率いる右翼は神聖ローマ軍を圧倒し、中央の軍は当初神聖ローマ軍を押し込んでいたものの、ヴァレンシュタインがかけつけ、戦線を押し戻すことに成功。これを見たグスタフは、中央の軍の救援に向う。その途中、軍とはぐれてしまったグスタフは、濃霧の中、敵騎兵に撃たれ、乱戦に巻き込まれ戦死してしまう。その後、この戦いは最終的にスウェーデンの勝利と終わった。(正確にはこの戦いを表現してません。実際にはこの戦いはかなりの激戦で、一進一退の攻防が繰り返されていました。)

こうして、スウェーデンを強国に導いたグスタフは、自身の最盛期に戦死してしまうのです。

グスタフ・アドルフは自身のキャリアの中で、ヴァレンシュタイン率いる神聖ローマ帝国軍との決戦の最中陣中に没してしまいました。
彼がもし生きていたならこの勝利によって、スウェーデンは北ドイツに基盤が築けたかもしれません。
しかしながら、このアドルフの死によって、強欲すぎて手に負えなかったヴァレンシュタインは皇帝の手によって暗殺されてしまいます。
歴史にIFはありませんが、アドルフが生きていた場合再びヴァレンシュタインとの決戦が行われたかもしれません。

アドルフの施政においてスウェーデンの国力は一気に増しました。産業形態も彼の代で一変しています。アドルフは先進諸国オランダ・イングランドから技術者を招きいれたことは何度か述べました。そのおかげか、スウェーデンでは最終的に武器を輸出するまでになったのです。
DOL内においても、ストックホルムあたりで大砲が出てもいいのではと・・思ったりしてますが、北欧型○○という船は出てますね。

一方、スウェーデンの躍進に伴って衰退・方向転換した国も数多くあります。
衰退が決定的となった国は、ポーランド。すでに衰退期に入っていた東欧の大国は、スウェーデンとの消耗戦によって完全に国力を疲弊させます。この後周辺諸国に圧迫されながら、18世紀にはドイツ(プロイセン)・オーストリア・ロシアによって三分割され消滅してしまいます。
方向転換した国としてはデンマーク。デンマークは、スウェーデンを属国とする主権争を完全に断念し、バルト海の制海権もスウェーデンに譲ることになります。しかし、デンマークは海上貿易を主としたポルトガルのような国家に変貌を遂げます。大国との良好な同盟関係を結びながら今しばらく繁栄を謳歌します。
次に時代は下るのですが、三十年戦争後の神聖ローマ帝国。
三十年戦争の結果、神聖ローマ帝国は有名無実の国家となり、諸侯による独立国家共同体のような集合体になります。
この戦争の結果、ドイツとしてのアイデンティティはハプスブルクから離れ、ハプスブルクはオーストリアを中心とした巨大諸侯として存続します。(後のオーストリア・ハンガリー二重帝国)
残されたドイツでは、ブランデンブルク・ドイツ騎士団を中心とした新教諸侯がまとまり、プロイセンを形勢していきます。
三十年戦争にスウェーデンの後介入したフランスは、ハプスブルク家に対し完全に優位な立場に立ち、ヨーロッパ大陸では最大の国家となります。(イングランドは大陸じゃないですと強引に)

このようにして、スウェーデンが周辺諸国に与えたインパクトは計り知れないものがありました。あえてロシアには触れませんでしたが、この後の歴史においてロシアははずせない勢力であることはここに記しておきます。

長々とまとまらなくて申し訳ありませんが、これにて北海の闘争シリーズを完結いたします。
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