オスマン帝国 その1::国家の歴史
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オスマン帝国 その1

2005-07-24 ; 国家の歴史

大航海時代のシリーズを通じて強大な国家として君臨するオスマン帝国。イスラム教の大国である、この国の首都イスタンブールには、オンライン版には、商館の施設が準備されています。将来はここに商館買ったりできるようになることを期待しています。
ちなみに、ちゃんと20個商館ありますよ。

●オスマン帝国の変遷
オスマン帝国はビザンツ帝国(東ローマ)の領土を侵食しながら大きくイなった国家である。また、最終的にビザンツを滅ぼしたのもオスマン帝国であった。
では、オスマン帝国の歴史を語ってみましょう。
オスマントルコは、元は西トルキスタンで半遊牧生活を送っていたが、チンギス=ハンの圧迫を受けて、西進し小アジアの西北部に侵入。その地で族長のエトゥルルがルーム・セルジューク朝(1077-1308)に仕えたのがきっかけで、小アジアに定住する。
彼の子供のオスマン=ベイはルーム・セルジューク朝の衰退に乗じて、オスマン帝国を起こし、独立する(1299)。
オスマン=ベイはオスマン1世として、ビザンツ帝国の領地に侵入し、勢力を拡大する。
次のオルハン=ベイの代には、ビザンツ帝国のブルザを攻略し、ここを首都とする(1326)。
3代目皇帝ムラト一世の時には、さらに領土を拡大し、小アジアの対岸のバルカン半島に進出してアドリアノープルを占拠。ここを首都とした(1362)。
アドリアノープルを占拠されたバルカン半島の諸民族は、セルビアを盟主として、オスマンに対抗するが、コソヴォの戦いで破れ(1389)、オスマンのバルカン半島での支配権は磐石のものとなった。
しかし、ムラト一世は、降伏してきたセルビアの貴族に暗殺されてしまう・・・・。
4代目皇帝バヤジットは、暗殺された父に代わり、セルビアを粛清し、さらにハンガリー王ジギスムントと交戦する。
ハンガリーは、フランス・ドイツ・イギリスに助けられニコポリスでオスマン帝国と戦うが(1396)敗戦する。
ハンガリーを破ったオスマン帝国は、いよいよビザンツの首都コンスタンチノープル(現イスタンブール)にその触手を伸ばす。
しかし、突如東方からティムールが攻め込んできて、アンカラの戦いでオスマンは破れ、壊滅的な打撃をうける(1402)。
そして、バヤジットは翌年獄中で死亡し、オスマン帝国は一時中断することになる(1402-1413)。

●ティムールの死後
ティムールがアンカラの戦いのあと3年後に亡くなると、バヤジットの諸王子たちは、一斉に立ち上がり、オスマン帝国の再興を計るが、それとともに、激しく皇帝の地位をあらそったため、11年の間、皇帝がいない空位時代になってしまう。
この後継者争いに勝利し、皇帝(スルタン)になったのが、メフメト一世であった。
彼はオスマン帝国の再興に力を注ぎ、次のムラト二世の代には、再び小アジアを支配するまでに勢力を拡大する。
そして、7代皇帝メフメト二世が、ついにビザンツ帝国の首都コンスタンチノープルを攻略し(1453)、1000年以上続いたビザンツ帝国を滅ぼし、ここを首都とする。(ゲーム内では、イスタンブールとの表記があるが、名前がイスタンブールに変るのはもっと後になってからである)
このイスタンブールの遷都をきっかけにして、オスマン帝国は大発展の道を歩むとともに、西欧諸国は大航海時代に突入する。
大航海時代のオスマンについては次回で・・。

●イェニチェリ
ムラト一世の代に創設された親衛隊。イェニチェリとは「新しい兵」を意味し、支配下のキリスト教徒の中から、強健・美貌の持ち主を厳選して、イスラム教に改宗させ、厳しい訓練を行う。
身分上はスルタンの奴隷であったが、高官・高位に選抜されるための登竜門であったために、後にはバルカン半島の住民の中には志願するものまで現れたという。
ヨーロッパの軍隊はイェニチェリの楽隊の音を聞いただけで戦意を喪失したという。
14-15世紀にはオスマン帝国の発展におおいに貢献したのだが、後に軍規が乱れ、横暴を極めたために、1826年に廃止された。
ゲームにも登場する強力な兵士だ。

※2006年9月にこの記事の文章を一部修正しました。しかしこの頃の文章はへたくそだなあ・・・。
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