マラトンの戦い その2::歴史雑学
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マラトンの戦い その2

2005-07-21 ; 歴史雑学

第一回ペルシア戦争で、船が難破したものの、エーゲ海北岸を獲得したペルシア。
この時期のペルシアの王はダレイオス一世で、アケメネス朝ペルシア最盛期の王である。彼の時世にペルシアは、世界初の世界帝国を築き上げていた。
そして、ダレイオス一世はいよいよイオニア反乱の際に軍隊を派遣したアテネ・エトルリア(エトルリアもアテネと一緒に少数ながら、軍を派遣していた)に対し、大軍を派遣する。これをもって、第二回ペルシア戦争は開始された(前490年)
圧倒的な大軍にエトルリアは、なすすべもなく完敗し、さらにペルシアは、アテネにその軍を差し向ける。
いよいよペルシア軍は、アテネ北東部のマラトンに上陸。なぜペルシア軍が、アテネからこれほど離れた地域に上陸したのかは、未だ解明されていない。
また、余談ではあるが、このときスパルタの案内役を務めたのが、前回アテネを追放されたヒッピアスであった。つくづくとんでもないやつである・・・。
ペルシアがマラトン上陸の報を受けたアテネでは、ミルティアスの積極論を取り入れ、マラトンで交戦することを決意。こうして数日のにらみ合いの後、マラトンの戦いがいよいよ開始される。

さて、ここで両軍の戦力をば・・・
アテネ軍 10000人 指揮官 ミルティアス
ペルシア軍 20000人 指揮官 ダティス、アルタフェルネス
ただし、ペルシア軍には、このほかにも1万人から2万人の余剰兵力があったと伝えられる。

きれいな長方形の陣を敷いたペルシア軍に対して、約半数のアテネ軍は、ミルティアスの指揮によって、中央を薄く、両脇を硬く固める布陣をとった。
ミルディアスはそのまま陣を前進させ、ペルシア弓兵の射程に入ったとたんに、全軍を走らせ、わずか10分から15分の間に、両軍は白兵戦に突入する。
ペルシア軍は人数の多いのが災いしたのか、なかなか自軍を展開できずにいたが、なんとか薄いアテネの中央を突破する。
しかし、そのころには、ミルティアスが両脇を硬く固める布陣を敷いたために、両翼のペルシア軍は突破される。
そうして、ペルシア軍は後方からも攻められ、一方、中央を突破した一軍も、アテネ軍の重装歩兵部隊に手を焼き、敗走を始める。
見事な戦術を敷いて、ミルティアス率いるアテネ軍は圧倒的な兵力差を覆し、マラトンの戦いに勝利したのだった。
戦術面でのすばらしさもさることながら、アテネの重装歩兵は、ペルシアの軽装騎兵に対して、かなり優勢に闘えた兵のすばらしさも、アテネがペルシアに勝利した一因であろう。
このマラトンの戦いをもって、第二回ペルシア戦争は終結する。

歴史は第三回ペルシア戦争へと続くが、今回はいったんこれで歴史を追うのは終了します。

●余談
アテネとマラトンの距離は約40キロで、戦争の結果を伝える兵士が、マラトンからアテネまでの約35キロを激走し、「我ら勝てり」といって息絶えたと伝えられる。この故事にならって、アテネで開催された第一回オリンピックで、アテネ-マラトン間の40キロを走る競技に「マラソン」となずけた。

●タベラ枢機卿・・・
マラトンの戦いにたとえたのは、圧倒的な兵力差を誇るイングランドに勝ったといいたかったんだろうかな・・。でも・・言い過ぎでない?

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