大英帝国の野望 その4::国家の歴史
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大英帝国の野望 その4

2006-11-05 ; 国家の歴史

前回は中途半端なところで記事をきってしまいました。というのが、第4ラウンドのヨーロッパでの戦い・・七年戦争は、これまでとかなり性格の異なるものだったのです。フランスは七年戦争で、大航海時代の古くから宿敵であったハプスブルク家と手を結び、ヨーロッパ戦線に全力を傾けます。この隙をついて、英国は全力を持って北アメリカとインドに攻めることにしたのです。
いままでは、両面作戦で英国とヨーロッパ列強との戦いを行ってきたフランスでしたが、今回ばかりはそうはいかず、結果的に両殖民地での争いに敗れてしまいます。
ここにいたるまでに、IFがあるなら英国の勝利はなかったであろう人物を見てみましょう。

●ジョセフ・フランソワ・デュプレクス(1697年~1763年)
フランス北部の商人の家の出身であったデュプレクス(英語読みではデュプレックス)は、1720年にフランス東インド会社に入社すると実力がみるみる評価され、ついに1742年には東インド会社の総督にまで上り詰める。また、1735年から1740年の間にモーリシャスとレユニオン地区をおさめたフランソワ・ブルドネスの活躍も忘れてはならないだろう。
1740年に、ブルドネスは英国に占領されていたマーシェの街を取り戻し、デュプレクスを喜ばせた。

さて話をデュプレクスに戻す。
彼の行った政策の一つに現地インド人兵士の機銃訓練・装備である。結局のところ植民地争いは、現地諸侯とフランス・イギリスなどに組する現地人との争いの側面もある。
フランス士官に率いられたインド人兵士は、機銃という武器を持ち、現地インド諸侯の騎馬部隊を圧倒することに成功。
こうした軍事革命によって、デュプレクスは次々とインドでの勢力範囲を広げていった。
1744年にヨーロッパでオーストリア継承戦争(第3ラウンドですね)がはじまると、前二回の戦争と同様に植民地でも英仏の抗争が本格化する。
今回のインドでの植民地争いは、豪腕デュプレクスの活躍によってイギリス東インド会社に対して優勢をほこっていた。
1746年には英領マドラスを包囲攻撃し、ここを占領する。
先ほどのブルドネスは、英国のペイトンに敗れるが、その後マドラスの包囲戦に参戦し勝利に貢献している。しかし、1748年にオーストリア継承戦争が終結すると、本国の失策(失策とはいえないかもしれないが、ここでインド殖民地を返還したのは、後から見ると失策でしょう)、によって占領地を返還した。
次に、フランス・ブルボン家とオーストリア・ハプスブルク家の200年に渡るライバル関係を解消(外交革命)し、両国が同盟を結ぶと、先の継承戦争の復讐を誓うオーストリアがプロイセンに対して攻撃の意志を見せる。そうなると、フランス本国はヨーロッパ戦線に力をかなり裂くことになり、経費がかかるという理由でデュプレクスを解任してしまう。
こうして、その後のプラッシーの戦いで完全にイギリスに敗北し、フランスにおけるインドの植民地は、実質終了することになる。(いちおう和約で、ボンディシェリなどは領有・・)
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