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中世フィレンツェの孤児院

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中世ヨーロッパの生存率と結婚年齢 その2

2006-10-25 ; 歴史雑学

せっかくですので、生存率と結婚年齢に深く関わっている捨児についてみてみましょう。

●慈善施設の建設
西欧諸国では11世紀以降、十字軍や巡礼活動が活発化すると共に、巡礼者や貧者、病気の者などのための慈善施設が建設されるようになってきた。
捨児や孤児たちは当初これらの施設に他の人々とともに収容されていたのだが、そのうちそれらの施設だけでは入りきらなくなり、14、15世紀になると彼らだけを専門的に収容する施設が北イタリア・フランドル地方に創設されていく。(いわゆる孤児院ですね)
フィレンツェを例にとってみると、1445年にサンタ・マリア・デリ・インノチェンティ捨児養育院が創設されている。

●フィレンツェの孤児施設
インノチェンティでは、1445年から1485年までの約40年間に、男の子2728人・女の子3618人・総勢6346人が入所している!(当時の人口からしてすごい率ですね)
これらの子供たちがどこから来たのかについて記載のあるものが5分の1あり、そのうち3分の1がフィレンツェとその周辺地域から来ている。
また、残りのほとんどもフィレンツェから半径50キロ以内の地域から来ているようだ。
例外的に、ピサやヴェネチアといった当時から慈善施設がある地域からつれてこられている。
さて、次に興味がいくのはなんだったのかというと、彼らがつれてこられた理由。
フィレンツェでは、女奴隷の子供が最も多く入所している。これは開設当初10年間では全体に3分の1にあたり、次の10年では5分の1に減少し、その後も次第に減っていく・・。
さて、奴隷と聞いて想像するのが大航海時代の闇の歴史である黒人奴隷だが、ここでいう奴隷は全く別の地域からつれてこられたものだちだ。
前回の人口統計のお話で、黒死病によって西欧諸国の人口が激減したとお話した。1348年の黒死病の大流行によって、労働人口が激減・・、その労働力を補うために、ヴェネチアをはじめとした東方貿易の一環として奴隷が連れてこられるようになる。
この哀れな奴隷たちのうちわけは、タタール人(最多)・トルコ人・スラヴ人・アルバニア人・アラブ人などであった。
彼らのうちのほとんどは女奴隷で、何をさせたのかというと家内労働だったのだ。
つまり、黒死病によって激減した労働人口を補う、特に家内の奉公人の供給が全く追いつかなくなった家内労働をさせるために女性が選ばれたというわけだ。
まあ、その後はお察しがつくとは思うが、女奴隷と主人(もしくは家庭内の誰か)との間に子供ができてしまうことがある。その子供はどの家庭にとっても厄介者だから施設に放り込むというわけだ。
そして、その子供たちの数が、年を追うごとに減少しているのは、前回の人口統計のお話で、大航海時代に入ったころには人口が増加に転じたとお話した。
すなわち、家内労働をさせる労働力の供給が追いついてきたので、女奴隷の数は減ってきたというわけだ。

ここまで長々と女奴隷について見てきたのは、何が言いたいのかというと、黒人奴隷という黒歴史が行われる前にすでに東方貿易によって奴隷は確保されていたということ。
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