フランスの歴史その2::国家の歴史
FC2ブログ

フランスの歴史その2

2005-07-04 ; 国家の歴史

フィリップ4世がフランドルとギュイエンヌをイングランドから王領化しようと画策したことは以前記載したが、フランドル地方は毛織物の産地で、当時最大の羊毛輸出国だったイングランドと仲がよかった。
そのため、フィリップ4世がフランドル伯はフランス王の封建的臣下であると主張し、フランドルを支配に置こうとするとイングランドの激しい反発にあった。これが百年戦争の最大の要因となった。
次に、カペー朝が断絶し、フィリップ6世がヴァロワ朝を開くと、フィリップ6世はイングランド王はギュイエンヌに関してはフランス王の封建的臣下であり、これを口実にギュイエンヌを支配しようとする(1337)。
ギュイエンヌはボルドーを中心としたワインの名産地で、イングランドではボルドーワインが愛飲されていた。さらに、先のパリ条約でイングランド領と定められたため、ギュイエンヌを支配しようと動くフィリップ6世にイングランドは猛反発した。
そこで、イングランド王エドワード三世は自分はフィリップ4世の孫であって、フィリップ4世の甥であるフィリップ6世に王位継承権があるなら、自分にも王位継承権があるとして、フィリップ6世に挑戦状をたたきつけた(1337)。さらに、フランドルに対し、羊毛を輸出しないと脅し、対仏反乱を起こさせる。

挑戦状を叩きつけたイングランド軍はノルマンディーに上陸(1338)し、その翌年戦争が開始された。この戦争開始をもって長い百年戦争が開始されることになる。

百年戦争初期には黒太子エドワードの活躍により、イングランドは優位に戦争を進め、最初の決戦であるクレシーの決戦(1346)では黒太子の長弓部隊がフランス軍を圧倒し、イングランドの完勝に終わる。
さらに黒太子はイングランド領ギュイエンヌに進出し、ポワティエでフランス王ジャンと戦い、ジャンを捕虜にした(1356)。(黒太子について知りたい方は、このサイトの右上の検索窓から検索してください。)

しかし、クレシーの決戦の翌年からおおやはりしたペストのため、フランスの人口の三分の一が死亡した。ペストによって困窮したフランス農民は内乱を起こす(ジャックリーの乱 1358)。
このため、ブレティニーの和約が結ばれ、イングランドはジャンを解放し、ギュイエンヌ、ボワトゥ、ガスコーニュ、カレーを獲得する代わりにフランス王位継承権を放棄した。
こうして両国は一時休戦することになる。

ジャン二世の死後フランス国王になったシャルル5世(1364-1380)は、イングランドの領地を次々に落とし(1369-1375)、ついには、ボルドー・カレー・バヨンヌを残し、全てのイングランド領を奪取する。初戦で敗退したフランスは第2戦ではイングランドを圧倒する結果となった。
シャルル5世の後を継いだシャルル6世(1380-1422)であったが、ストレスのためか発狂したため、ブルゴーニュ公が摂政となった。このことが後のフランス国内を動乱にまきこむことになる。
ブルゴーニュ公はフランス最大の封建領地を持つフランス北東部の封建領主であって、今回摂政についたことによって、フランス中枢部での権力の拡大に成功し、ブルゴーニュ派を築いた。これに対し、シャルル6世の甥であったオルレアン公を中心とするアルマニャック派(国王派)が対立する。
そして、ブルゴーニュ公はフランドルを併合し、フランス東部に強力な地盤を築くとともに、イングランド王と結んでアルマニャック派との対立を深めていった。
一方このころイングランド国内は混乱していた。黒太子の子であったリチャード二世(1377-1399)が即位するが、それに反発した一族のランカスター家のヘンリと争い、リチャード二世は捕らえられ暗殺される。これによってプランタジネット朝は断絶し、ヘンリはヘンリ4世としてランカスター朝を創始した(1399-1461)。
先に国内の混乱を解決させたイングランドはブルゴーニュ公と結び、フランスに奪われた領地を奪還すべくフランスのノルマンディに侵入する(1415)。そして、アザンクールの戦いで大勝し(1415)、トロアの条約(1420)を結び、フランス王太子シャルルの王位継承権を否認し、イングランド王太子ヘンリの王位継承権を認めさせた。
第3戦はイングランドの勝利に終わったのである。

そして、イングランド王ヘンリ5世とシャルル6世が没すると、イングランドの幼王ヘンリ6世(1422-1461)が英仏両王を称する。
これに対し、フランス王太子シャルルはアルマニャック派に押され、シャルル7世として即位するが、ブルゴーニュ派に猛反発を受ける。さらに、トロアの条約で継承権を失っていたシャルル7世は非合法の王であり、その勢力範囲もロワール川流域とギュイエンヌを除く南フランスに限定されたものであった。

このシャルル7世の即位に反発したブルゴーニュ派はイングランドと結んで戦争を開始する。イングランド側にしても南フランスを奪取する機会をうかがっており、渡りに船であった。
こうして、イングランドはアルマニャック派の拠点であったオルレアンを包囲する(1428)。
シャルル7世絶体絶命の状況だったが、13歳の少女ジャンヌダルクが現れオルレアンの包囲を突破し、イングランド軍を撤退させた(1429)。
その後勢いに乗ったフランス軍はランスを奪取し、ここでシャルル7世は正式な王として即位する。
そうして、ノルマンディー(1449)、ギュイエンヌ(1453)、ボルドー(1453)を占領し、カレーを除く地域からイングランドを駆逐し、百年戦争を終結させた(1453)。
この戦争に完勝したフランスは王の中央集権化が進み、絶対王政へと突入していく。
一方のイングランドは王位継承問題からばら戦争へと発展する。
シャルル7世の子、シャルル8世(1483-98)の代には中央集権化が完成し、絶対王政が開始される。
シャルル8世の死によって、ヴァロア朝が断絶し、ルイ12世(1498-1515)が即位し、オルレアン=ヴァロア朝(1498-1589)が創始される。
ちょうどこの年代が大航海時代初期にあたる。シャルル8世が没した年にガマはインド航路を発見し、ルイ12世の代にはポルトガルがゴアを落としている。
ルイ12世の次代の王となったのが名君フランソワ一世(1515-47)である。
フランスの実装をまたねばならないが、フランスのイベントなどをみて、ルイ12世以降は付記していこうと思う。
フランスは中世ヨーロッパの中心的な国家であり、いち早く中央集権化を達成し、常に強国として君臨したのであった。

ランキングに参加中です。FFにまけるな!大航海ブログ!
  • 関連記事
    Entry Status
    New >>
    大航海時代の東ヨーロッパ
    << old
    フランスの歴史その1

    Comment

    Post a Comment









    管理者にだけ表示を許可

    Trackback

    http://dolmeke.blog11.fc2.com/tb.php/44-e9f1eb92

    歴史ファンの大航海時代 Home | Page Top▲