大帝国フランス::国家の歴史
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大帝国フランス

2006-05-04 ; 国家の歴史

以前のフランスの成り立ちから、フランスの中世~大航海時代に至るまでを長々とお伝えいたしました。
今回は、商会仲間のキートンさんから、フランスの帝国主義を見てみたいとのご依頼がありましたので、それを見てみます。
その前に復習は・・・こちら。ルイ12世までの歴史が書いてあります。

●オルレアン=ヴァロワ朝とフランソワ一世
百年戦争に勝利後、シャルル8世の崩御によって、直系のヴァロア朝が断絶し、傍系のヴァロア・オルレアン家のルイ12世が即位して、ヴァロア・オルレアン朝が成立した。
この王朝の二代目がかの有名なフランソワ一世(在位1515~47)で、彼の治世によってフランスは良くも悪くもその後の方針を決定することになる。
◆フランソワ一世の外征
神聖ローマ皇帝の座をめぐって、ハプスブルク家のカール5世と争って敗れ(カールはスペインの王でもあった。フェリペの父)、彼に対抗するために、ローマ教皇などをまきこみ、イタリアをめぐって激しく抗争をくりかえす(イタリア戦争)。
このイタリア戦争は、最終的にはフランスの敗北によって幕を閉じたのだが、その理由として挙げられるのが、スペインのテルシオ陣形の前に敗北しただの、梅毒のせいだのささやかれているが、一時フランスは、北部イタリアを占領するまでがんばったことだけは付記しておこう。
◆フランソワ一世の内政
彼は、内政に関しては間違いなくフランス絶対主義を発展させた偉大な王として後世に語り継がれる人物である。
国内の中央集権化を推し進め、混乱を修復し、常備軍の完備・官僚制度の整備と大活躍だった。また、芸術の分野も大いに発展し、フランス=ルネッサンスが開花。パリは大いににぎわったという・・・。

このフランソワ一世の治世によって、今後のフランスの方針として・・
1、オーストリア・スペイン両ハプスブルク家への対抗!
2、イタリアと親密な関係をもったため、フランスはカトリックを推進。
3、中央集権化が完成したため、中世以来続く強国の地位は不動のものとなる。

外征はあまりだったフランソワ。しかしながら、その内政によって名君とまで呼ばれたのだが、その治世の後半はきな臭くなってくる。というのは、大航海時代の裏側として切っても切れない宗教改革が旧教国フランスにまで波及し、フランスではカルヴァン派が1540年代後半から普及し始め、フランスの人口の3-5%はカルヴァン派に改宗していたという・・。そんな中フランソワ一世は崩御し、その次に王位に就いたのが、かの悪名高きアンリ二世である・・。
続く・・・・。
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大帝国フランス その2
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フランス病?イタリア病?

Comment

革命の日々 : 2006年05月04日(木) 04:38 URL edit
あー、ハプスブルグ対抗は自衛戦争ですよ。フランス視点に立つと。
東の神聖ローマ帝国(ハプスブルグ家が皇帝)
北東の低位地帯(ハプスブルグ家がブルゴーニュ家より継承)
南西のスペイン(ハプスブルグ家がスペイン王家を継承)
・・・は、それなんてフランス包囲網。というわけで殺らねばやられる状態ですよ。

そんなわけでイギリスへの恨みつらみは一旦忘れてまずハプスブルグ家をなんとかすることに集中しようという国家戦略ドクトリンが形成されていき・・・
革命の日々 : 2006年05月04日(木) 04:44 URL edit
フランスのカルヴァン派(ユグノー)の普及は北部と南部で著しい差があるのですが、これには2つの要因があったといわれていますね。
1つは、単純に南部のほうがカルヴァンの本拠地スイスに近いという地理的な条件。1つは、中世位までフランスはローマ文化に染まりまくった南部と、あんま染まらなかった北部とで文化や言葉がかなり大きく異なっており(Yesを北部はoui (うぃ)というのに対し、南部はoc (おっく)というので)Landoui , Langdocなどと言いまする(Langdocは地名にもなってますね)
んで、もともと話す言葉も全然違うぐらいなので、いまいち仲間って気分じゃない。ま、関東と関西ぐらいには仲が悪い。
んで、中央集権が進むと北部むかつくーーーという声が高まってくるんですな。必然的に。
あ、長くなったのでこの辺で。
めけ : 2006年05月05日(金) 01:42 URL edit
セシルさん>>
フランス視点の解説ありがとうです!
これについては諸説いろいろあるので、取り扱いが難しいのですが、
南部と北部の対立については、宗教的な点と歴史的な点が重なって対立は昔から激しかったようですよ。
革命の日々 : 2006年05月05日(金) 15:07 URL edit
結構シャレにならんかったらしいですよ。

国王: 大臣よ。余の質問に答えよ

国王: ヨーロッパで一番国力のあるところはどこだ?
大臣: つ スペイン
国王: ヨーロッパで一番権威のあるところはどこだ?
大臣: つ 神聖ローマ帝国
国王: ヨーロッパで一番の人口稠密な地域はどこだ?
大臣: つ ホラント州周辺低位地帯

国王: ・・・・全部ハプスブルグ家じゃないか。ではハプスブルグ家が次に狙うのはなんであろうな
大臣: バラバラの領地を地続きにすべく手を打ってくるでございましょうな。
ちなみに、この三箇所のちょうど真ん中にある国があるのですがご存知ですかな?
国王: ・・・・・
大臣: ・・・・・・・・・・
革命の日々 : 2006年05月05日(金) 15:12 URL edit
フランス側の警戒は相当なものだったようで、この後7年戦争でハプスブルグ側の仮想的がブランデンブルグ辺境伯(ただしドイツ外ではプロイセン王を号していたので100年戦争のイギリス状態)に切り替わるまで、ヨーロッパには珍しく婚姻政策などもまったくナシのつぶてです・・・・

そして、やっとこさ実現した雪解け結婚で輿入れされてくるのがマリー・アントワネットというのが歴史のドラマチックな所でして・・・・

また、話がそれた。
めけ : 2006年05月06日(土) 01:08 URL edit
セシルさん>>
その後の説明までありがとです!当時のフランスの国力をどうみるか?で視点が変わってくるのかな?
わたしのなかで、スペインの評価が低いからかなー。ハプスブルクはそんな強力には見えてこない・・。
ハミルカル : 2006年05月06日(土) 06:11 URL edit
国力の基準をどう見るかですが、『人口&穀物生産量÷中央集権度=動員兵力』 で考えると、中央集権化&常設軍の設置に成功したフランスはこの時代のヨーロッパでは圧倒的ではないでしょうか?
日本だと、中央集権化に成功した桃山時代の動員可能兵力は、人口&石高1800万→兵力36~40万位です。ヨーロッパ諸国だと、イングランド300~500万人・フランス1500~1800万人・イスパ(カスティーリャ+アラゴン)500~700万人・神聖ローマ1700~2000万人・スウェーデン2~300万人位でしょうか。(病気や戦乱で人口の変化が激しいので多少違うかも)
イスパや神聖ローマは中央集権化で外征!どころか国内すらまとまってませんから(イスパは自領のネーデル対策で金銀も浪費)、実際に動かせる兵力は各15~18万と見られますが、その後の30年戦争でスウェーデンと戦ったときもせいぜい実質5~6万人位しか会戦に投入出来ていません。スウェーデンが人口が少ない割りにあれだけ強かったのは、グスタフ=アドルフの時に主権が強化されて兵力と火器装備を集中化できたからではないかと思います。(国内は悲惨ですが) 
30年戦争の中盤でスウェーデンにすら勝てなかった神聖ローマが、同じようにいち早く中央集権化したフランスに陸上の会戦で勝てるかは疑問ではないでしょうか? 実際、1643年フランスとスペインはフランス北部ロクロアで大会戦し、フランスが圧勝しています。 
それと重要なのが対オスマン。神聖ローマは東に当時ダントツの強国オスマンと戦っています。フランスがオスマンと同盟したのも逆包囲と言うことではないかと。
(長くなって済みません。)
めけ : 2006年05月06日(土) 23:37 URL edit
ハミルカルさん>>
わたしの主観的見解はまさにそのとおりです。中世からイングランドが最強になるまでは、フランスこそ最強国という見方がわたしの主観です。
グスタフアドルフはいずれかきたい人物の一人でして、彼は生まれてくるのが100年遅かった伊達正宗といったとこでしょうか。
アイラ : 2006年07月11日(火) 21:03 URL edit
突然失礼致します。あの、フランソワ一世の時代のミラノ公軍を破った戦い(多分1515年あたり)について色々教えて下さいませんか?時代背景とか何でも構いませんのでお願いしますm(_ _)m
めけ : 2006年07月12日(水) 09:55 URL edit
アイラさん>>
またマニアックなリクエストで!資料が入り次第やりますー。
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