「不世出の戦術家」ハンニバル その1::人物列伝
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「不世出の戦術家」ハンニバル その1

2005-06-18 ; 人物列伝

ハンニバルの生まれた国であるカルタゴ(現北アフリカのチュニス付近)は、前9世紀ごろフェニキア人によって作られた植民都市であった。前6世紀ごろには勢力を拡大し、西地中海の制海権を握りとともに、サルディニア、シチリア、イスパニアにも勢力を拡大していった。
前4世紀には西シチリアをカルタゴが、東シチリアをギリシャが所有するようになり、カルタゴとギリシャは激しく覇権を争った。そして、しだいにカルタゴはその勢力権を拡大し、ギリシアの権威が及ぶ地域はシラクサを中心としたわずかな土地になっていた。
そのギリシア権力内で、シラクサのヒエロンが同じくギリシア権力のマルメス隊に対して、カルタゴの力を借り討伐に向かう。
それに対し、マルメス隊は当時力をつけてきたローマに救援を求めた。ローマはこれにこたえ、これがきっかけとなってローマとカルタゴは全面戦争に突入する。
これが第一次ポエニ戦争であった。
第一次ポエニ戦争は、ローマがシチリアに艦隊を派遣し宣戦したことから始まる(前264年)。その後、ローマはカルタゴのシチリア島の拠点であるアグリジェントを落とし、シチリア島を占領。
しかし、カルタゴ海軍は地中海で無敵をほこっており、シチリア島を落とすもローマはカルタゴ海軍に苦しめられた。
ローマは早急に海軍を作り上げ、前256年エクノムスの海戦でカルタゴ海軍に壊滅的な打撃を与え、ポエニ戦争に勝利したのだった。
この戦いによって、ローマはシチリア島を領有することとなる。
エクノムスの戦いで敗れたカルタゴの将軍ハミルカル=バルカスはローマに復讐を誓い、スペインに進出した。
その叔父であるハルトルバルはスペイン全土を支配下におき、スペイン経営に着手。
ハルトルバルが亡くなると、ハミルカルの息子ハンニバルが26歳の若さでスペイン総督の地位につくことになる。
ハンニバルは父の意思を継ぎ、ローマに復讐することを誓う。

ここで話がとぎれるが、両国の政治と国内情勢をみてみよう。
この当時ローマは、ローマ以外の都市、部族に対する統治政策が賢明・巧妙であったことに加え、同盟部族の待遇に差をつけ団結して反乱がおこらないよう巧妙な政治政策をとった。また、ローマの権力機構は一枚岩で、硬い意思とローマとしての団結心があった。軍隊は重装歩兵を中心として精強であった。
一方のカルタゴは政治的腐敗が進み、常に主戦派と非主戦派または、貿易至上主義と領地至上主義が対立していた。カルタゴ兵は数でこそローマに劣らないものの、商業国家として地位を築いたため、軍事国家ローマに質では劣っていた。
一方人材面ではどうだろう、ローマの将軍は決して凡庸ではなく名将の域に達する将軍が幾人もいた。
カルタゴには比類なき名将ハンニバルがいたとはいえ、そのほかの将軍は決して名将と呼べるものではない。
たった一人の能力で斜陽の国カルタゴを新興の強国ローマ相手に勝利に導くことができるのか・・。ハンニバルはそんななかでカルタゴを勝利に導こうとしていたのだった。

ハンニバルはまず前219年、スペインのローマ同盟都市ザンクトゥムを8ヶ月かけて陥落させた。これに対しローマはザンクトゥムを明け渡すように抗議。このときローマは話し合いで解決し、もし戦争になったとしても、局地的な戦争になるものだと考えていた。カルタゴ本国もまた同様に考えていた。
しかし、ハンニバルは頑としてこれを受け入れず、イタリア遠征の準備を整える。
彼は歩兵9万人、ヌミディア騎兵1万人、戦象37頭をひきつれ、当時徒歩でも厳しいピレネー山脈を越え、ローマ本国に攻め込むことを決意。ピレネー山脈を越え、ローヌ川を渡り、15日間にも及んだアルプスを越えるころには、歩兵2万人、ヌミディア騎兵6000人、戦象20頭にまで疲弊した。
12月末、トレビア川でついにローマ軍と交戦する。
ここに第二次ポエニ戦争が開幕した。
続く

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