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大航海時代の裏に、宗教改革 その2

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大航海時代の裏に、宗教改革 その3
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大航海時代の裏に、宗教改革 その1

2005-10-21 ; 歴史雑学

前回は、宗教改革がいかに起こったのかを見てみました。今回は、代表的な宗教改革を行ったルターについてみてみましょう。

●マルティン・ルター
中部ドイツのチューリンゲンの鉱夫の家に生まれ、エルフルト大学で学んだが、友人の死や落雷体験をきっかけに修道院に入る。
ルターは学問に優れた才能を発揮し、ヴィッテンベルク大学の神学教授になる(1512年)。そして、1517年にヴィッテンベルク城教会の扉にかの有名な「95ヶ条の論題」をたたきつけたのであった。このことから宗教改革は口火を切るのである。
■マインツ大司教のお話
マインツ大司教は、免罪符の販売をティツェルにゆだね、彼は、教皇の紋章をつけた十字架を先頭に行列をつくって町をねり歩き、「お金が賽銭箱のなかでチャリンと音を立てさえすれば、魂は煉獄の焔の中から飛び出してくる」などという露骨で巧みな説教により、身分や収入に応じて寄進の額を定めて免罪符を売りまくり、人々からお金を集めていた。
そんな、ティツェルの一団は、ヴィッテンベルク近くでも免罪符を売りまくっていたのだ。
ティツェルらの売り方もルターが論題を叩き付けた一因ではあったのだと思う。

●95ヶ条の論題の後
95ヶ条の論題は、神学上の論争を求めたものであり、教皇権力を否定するものではなかった。ただ、論題の発表後、たちまちドイツ中に広まったため、教皇は使節を派遣しルターに論題の取り消しを求めが、ルターは応じず(1518)、神学者エッジとライプチヒの公開論争では教皇権を否定し(1519)、翌年「キリスト教の自由」という著書を発表し、この中で「人は信仰によって救われる」という信仰信義説を唱えた。
これに対し、教皇はルターが60日以内に自説を撤回しない場合は破門に処すとルターに脅しをかけるが、ルターは公衆の面前で破門状を償却してしまう。
それに憤慨した教皇は、神聖ローマ皇帝カール5世に破門を実行するように要求。それに応じたカール5世は、ルターにウォルムスの帝国議会に出頭するように命じた。
帝国議会では、カール5世はルターに自説の撤回を求めたが、ここでもルターは聖書に明らかな証拠がある以外は取り消さないと主張し、カール5世の要求を拒否。そのため、カール5世はルターを法律の保護外において彼を帝国追放に処し、ルター派を禁止した。
その後、ルターはザクセン選帝侯の居城でかくまわれ、その地で「新約聖書」のドイツ語版(当時、聖書はラテン語で書かれていた。ラテン語はローマ時代に話されていた言葉で、当時はすでに死語になっていた)を作成し、広く民衆にも聖書が読める道を開いた。
この後のルターについては次回で。

堅い話で次回まで続いてすいません。昨日は自己都合のため、エントリーをお休みしてしまい申し訳ないです。

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