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教皇とアヴィニョン その4

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教皇とアヴィニョン その3

2009-05-24 ; 歴史雑学

今回はアヴィニョンについて雑記を。。

アヴィニョンのある地域は、ローマ時代はガリア・ナルボネンシス地域(これは後に地域の範囲にもなります)の中心都市として位置ずけられます。この地域にはローマの古い入植港であるマルセイユがありました。
その後ウマイヤ朝を支持したため、フランクに討伐され反骨精神盛んなこの地域は、今度はキリスト教カタリ派を支持し、フランス王と対立しました。
そして、またしても討伐され、後のアラゴン王家となるバルセロナ家系列(プロヴァンス家)のおさめる地となりました。
この後、ナポリ王家となるヴァロワ・アンジュー家(後のフランス王家になるヴァロワ家の支流)のものとなり、フランス王家につながる土地となりました。
カタリ派を支持したとはいえ、この地域はローマに古くからある殖民都市マルセイユがある伝統のある土地で、キリスト教の伝来もはやく、なんと紀元後70年には司教座が設置されていました。
これは、キリスト教がローマで国教化されるはるか昔のお話です。
(キリスト教の流れについては、このお話のその1を参照にしてください)
アヴィニョンが後にフランス王の圧力によって教皇庁が置かれた原因の一つにこの長い歴史も一つの理由となっていた可能性は高いと思われます。

その3で述べたような対立の中から、フランス出身のクレメンス5世は1303年リヨンで教皇に即位し、フランス王の意に従いローマへは戻らず、1309年アヴィニョンに居城を定めました。
それと前後して1303年にはアヴィニョン大学が創設されるなど文化的にも南フランスの中心都市となっていきます。
アヴィニョン捕囚期には当時の領主であったプロヴァンス家からアヴィニョン市が売却され教皇領となり、名実ともに教皇の率いる地の一つとなりました。
アヴィニョン捕囚終了後においても、15世紀初頭には大司教区が設置されフランスカトリックの中心都市として栄えることになります。

結構有名な都市なのですが、アヴィニョン市の今の人口って10万人程度みたいです・・さすがヨーロッパは人口少ないですよね。

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