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教皇とアヴィニョン その3

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教皇とアヴィニョン その4
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教皇とアヴィニョン その2

2009-05-23 ; 歴史雑学

その2で書いた
「ノルマン王朝当時のイングランドから続くノルマン家やその後にイングランド王家を継いだアンジュー家(プランタジネット朝)との争いでの最終的な勝利の結果、フランス国内で広大な領土と権力を握ることに成功します。」
この文章ですが、百年戦争を想像させますね・・・。アヴィニョン捕囚が起こるのは百年戦争前のお話です。百年戦争前には、フランス王とイングランド王の争いによって元々イングランドが持っていたフランス国内の半分以上に及ぶ領土の大半はフランス王に奪われる形になっていました。

●フィリップ4世
フランス王フィリップ4世が王位につくと、フランス国内の利権を集約しようと動き始めます。彼は特に経済力を持った勢力を取り込み、国庫を充実させようとしました。
時代順に並べると、イングランド王との争い、フランドルとの争い・教皇との争い・テンプル騎士団の解体(参考記事)になります。
教皇との争いは後で述べます・・・・テンプル騎士団の解体は参考記事を参照にしてください。
他の二つを見てみますと、
フランドル(オランダ・ベルギー地域)は当時フランス王の封建臣下でした。(すなわちフランドルはフランスだったということです)
イングランド王とは、ガスコーニュ地方の獲得とフランス王への封建的臣従(フランス国内の範囲)を確保することで和睦しました。
フランドルはフランドル伯が治める所領で、当時毛織物の生産で経済の中心地となっていました。この経済力はフランドルの独立気質を強ましたが、フランス王としては多額の収入があるフランドルを手放すわけにはいかずたびたび紛争の種となっていました。
フランドル伯ギーは、毛織物の原料である羊毛の輸入元であるイングランドとの結びつきを利用し娘をイングランド皇太子と結婚させようと暗躍しました。これがフランス王に露見し、フランドルとフランスの戦争へと発展します。この戦いは泥沼となり和睦したり交戦したりの流れとなりました。

●アヴィニョン捕囚
教皇ボニファティウスはフィリップ4世と同じく野心的な人物で、伝統的な教皇絶対主義を踏襲し、教皇によるヨーロッパ支配を強化しようとしていました。
例えば、1300年を聖なる年とし、ローマへ多くの巡礼者を集め教皇財政を蓄えたり、フィレンツェの派閥争いを煽り、フィレンツェの支配をもくろんだりしました。
フィレンツェでは、当時有力な人物であったコロンナ家や「神曲」で有名なダンテを破門・追放したりしました。
そして、ボニファティウスとフィリップ4世はフランス国内の教会への課税問題で真っ向からぶつかります。野心的な二人の人物の争いですが、時は王権が強まった絶対王政の時代でした。
それを象徴するかのように、ボニファティウスの敗北でこの争いは幕を閉じます。
教皇がフィレンツェで破門したコロンナ家は、フィリップ4世と結びイタリアの教皇領に軍を派遣。その結果教皇はアナーニまで追い詰められ、この地で幽閉されることになりました。
アナーニの住民の反対にあい、教皇は解放されますが、一連の事件での過労のためか教皇は亡くなりました。
そして、フィリップ4世は次代教皇の選出に際し教皇庁へ圧力をかけ、フランス人であったクレメンス5世を選出させます。さらに、教皇庁のインフラ周りの収入を全て獲得するため、またフランス王の意向を強く反映するために教皇庁をローマからアヴィニョンに移させました。
この後、約70年間に渡り教皇庁はフランスのアヴィニョンに移りました。
この期間のことを古代バビロンのバビロン捕囚にならい、教皇のアヴィニョン捕囚と後の世で名前がつけられました。

次回でひょっとしたらアヴィニョンの捕捉をするかもかも。

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