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教皇とアヴィニョン その2

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教皇とアヴィニョン その3
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教皇とアヴィニョン その1

2009-05-22 ; 歴史雑学

昨日に引き続き、教皇とアヴィニョンのお話です。

●中世最強国家へ
西ローマ帝国滅亡後、フランク族が強大となり、広大なフランク王国を形成します。フランク王国は現在のフランス・ドイツをまたがる国家に成長しました。
フランク王国はイスラム(ウマイヤ朝)のヨーロッパ大陸への伸張をトゥール・ポワティエ間の戦いで食い止め、キリスト教世界を防衛することに成功します。
当時卓越した力を持っていたフランクにローマ教皇は目をつけ、教皇は東ローマ帝国の楔を取り除くことにフランクを利用します。
ローマ教皇は東ローマ皇帝の許可なく、カロリング家のピピン(カールマルテルの息子)にフランク王号を授けます。
(当時フランク王号はメロヴィング家のものでした。)
その見返りとして、ピピンはラベンナを教皇に寄進しました。これが後に続く教皇領の始まりとなります。そして、その息子シャルルマーニュは、当時イタリアの大部分を支配し、教皇を圧迫していたロンバルド王国教皇の救援に応じ、滅ぼしました。こうして、フランク王国は、教皇のお膝元イタリアの支配を固めます。さらにはザクセンやアバールなどの諸部族も撃退しました。
その活躍もあり、教皇はまたも東ローマ皇帝には無断でシャルルマーニュに西ローマ帝国の皇帝位を授けます。
このようにして、教皇は東ローマ皇帝の楔から脱出し、独自の権力を握ることに成功しました。
後にフランク王国は相続の結果分裂し、西フランク王国が後のフランスへと発展していきます。
西フランクのカロリング朝が断絶すると、当時伯爵位であったカペー家がフランスの王号を獲得します。カペー家は元々伯爵位(パリ伯)であることからもわかるように当時はフランス国内でも中規模の勢力にすぎませんでした。
これが、ノルマン王朝当時のイングランドから続くノルマン家やその後にイングランド王家を継いだアンジュー家(プランタジネット朝)との争いでの最終的な勝利の結果、フランス国内で広大な領土と権力を握ることに成功します。
(当時のイングランド王家は、フランス国内の約半分を支配する最大のフランス封建君主でもあったのです。)
250px-France_1154_Eng.jpg
↑当時のフランス国内におけるイングランド王家の領土。赤系の部分がそうです。(1154年)

この地図における南部の紫の部分ではキリスト教アルビジョワ派が信仰されていました。これを異端認定後、軍を派遣して滅ぼし、南部地域を支配することにも成功します。

この南部地域にはマルセイユやアヴィニョンが含まれています。

こうして、フランス国内での絶対権力を握ったカペー王家は、富の集中へとまい進します。これはなにも封土に対してだけではなく、当時多額の資金を持っていた教会に対しても行われようとしていたのです。
そのような流れの中、フィリップ4世が即位します。

続く

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Comment

ホーゲル : 2009年05月22日(金) 07:38 URL edit
初めまして、ホーゲルといいます。

いろいろ勉強になりました。ありがとうございます。

よかったらリンクをしませんか?


宜しくお願いします。
アイノ : 2009年05月22日(金) 12:26 URL edit
さっそく記事にして頂きありがとうございます(・∀・)
よっぽどネタに困ってたんd(ry
めけ : 2009年05月23日(土) 19:31 URL edit
ホーゲルさん>>
リンクフリーとなってますのでお気軽にー。こちらからもリンクさせていただきます!

○イノさん>>
い、いえ、ネタなんてまだまだあるんだからね!?
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