教皇とアヴィニョン その1::歴史雑学
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教皇とアヴィニョン その1

2009-05-20 ; 歴史雑学

某人物よりネタをもらいましたので、アヴィニョンと教皇について書いてみます。
いきなり教皇とアヴィニョンだけを抜き出して記載しても意味不明になると思いますので、簡単に流れも追っていきます。

●教皇という存在
ここでいう教皇とはカトリックの盟主ローマ教皇のことです。
簡単にローマ教皇の成り立ちはというと・・・、キリスト教の成立後、エルサレム教会とアンティオキア教会が主導し、キリスト教を広めます。
その後、ローマでキリスト教が受容されると、首都ローマにあったローマ教会、東方の重要都市コンスタンチノープル、北アフリカの文化的大都市アレクサンドリア教会も大きな力を持っていきます。
ローマ教会は古代ローマ帝国が健在なうちは、ローマというローカルな地域のみで布教を行った教会で、権威的なものはあくまで名誉的なものとされ、実質的な権力はなかったという説が有力です。
キリスト教成立以来、各派閥は勢力争いの中で対立する勢力を異端として認定し、排除しようと試みるようになります。
派閥争いが激化してくると、当時の宗教的・世俗的な主であったローマ皇帝は、キリスト教徒に介入し、公会議を開きます。初めて開いた会議はニカイア公会議といわれるものです。
(もっとも皇帝は、ローマの求心力・権威の強化のためにキリスト教徒を利用する思惑があったのですが・・・公会議当時皇帝はキリスト教徒ではありませんでした。後に改宗します。)
このニカイア公会議では、アリウス派が異端とされました。ただ、この会議で追い出されたアリウス派、次に開かれたエフェソス公会議で排除されたネストリウス派のおかげで、後のカトリックは生き残った面もあります。
異端とされたアリウス派は、ローマ外の地域に布教することで生き残りを図ろうとします。その結果当時東方地域に居住していたゲルマン民族をアリウス派に改宗させることに成功します。
これが後に、非常に重要な意味を持ってきます。
一方の、ネストリウス派はアンティオキア教会を中心にした派閥でアレクサンドリア教会と争い、エフェソス公会議で異端とされました。ネストリウス派もまた遠く中国にまで布教が及び中国では景教と呼ばれています。
西ローマ帝国が滅亡し、ローマはゴート族などのゲルマン民族の支配を受けます。しかしながら、ゲルマン民族はキリスト教化されていたことと、当時のゲルマン民族の人口に対し披支配地域のローマ人の人口比は5:95くらいだったといわれたこともあり、ゲルマン民族国家はローマ帝国の承認の元国家を建国します。
そのため、ローマ教会は排除されることなく、生き残ります。そして、ローマ帝国(東ローマ帝国)の威光が当初は及んでいたこれらの国家も長い時がたつと次第に及ばなくなってきます。
西欧諸国と東ローマ帝国の文化的・教義的差異も拡大し、東ローマ帝国の衰亡により力関係も等しいものとなってくると、ローマ教会は西欧全域に基盤を置く巨大な組織へと変貌を遂げます。
(教会の上に立つ人物であった皇帝がいなくなるということは、教会が聖の頂点に立つということです。)
この頂点に立ったのがローマ教皇だったというわけです。
東ローマ帝国の国威が衰えてくると、立場は逆転しローマ教会(カトリック)は東方へも進出したりしています。
こうして、聖だけではなく世俗にも絶大な権力を及ぼすようになったローマ教皇の権威は中世にはカノッサの屈辱に代表されるような一国の王をひざまづかせるまでになります。
しかしながら、中世末に絶対王政が成立すると国王の権威は肥大し、教皇を政治の道具にしていきます。
そんな中起こった事件が教皇のアヴィニョン補囚だったのです。

次回はアヴィニョン補囚が起こったフランスについてと、アヴィニョン補囚についてみてみます。


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