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バルネフェルト議長 DOLNPCその5

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2009-03-10 ; 人物列伝

本日は・・またマニアックな人物ですね。
今回は場所をネーデルラントに移します。アムステルダムに佇むバルネフェルトとはいったいどんな人物なのでしょうか・・。

●オルデンバルネフェルト(Johan van Oldenbarnevelt 1547-1619)
オルデンバルネフェルはオランダの独立に深く関わった政治家・法律家ですので、政治的な話を交えながら彼について見てみましょう。
・レスター伯のオランダ遠征(1579年)
オランダ総督がヴィレム一世の時代に、オランダ議長の地位にあったオルデンバルネフェルトは、ロバート・ダドリー(レスター伯)のオランダ遠征の防衛を行います。
レスター伯の軍事的才能がないことは当時から噂されていましたが、ズドフェン包囲を行うものの、オルデンバルネフェルトによって退けられました。

・ネーデルラント連邦共和国設立(1600年)
政治と法律に詳しかったオルデンバルネフェルトは、ネーデルラント連邦共和国の設立に尽力しました。
ネーデルラント連邦共和国は実質1600年ごろに成立したとされ、カルヴァン派を信仰する議会によって政治を運営する国家でした。
ネーデルラント連邦共和国は宗教的な対立からスペインに対し、これより以前から独立戦争(80年戦争)を行っています。
これと前後してポルトガルがスペインに吸収(1580年)されます。そこで、オルデンバルネフェルトはオランダ東インド会社を設立し(1602年)、ポルトガルから香料貿易を奪取することに成功します。
最終的に、彼の貢献で、1609年にスペインと12年停戦協定を結ぶことに成功しました。

・政争
1618年ヴィレム一世の次の総督、フィリップス・ヴィレムがブリュッセルで暗殺(おそらく暗殺だろうと言われています)されると、次はマウリッツがオランダ総督になります。
オランダは共和国という建前上、政治的な決定は議会で行われます。議会に力を持ち、ネーデルラントの建国に大きく貢献したのがオルデンバルネフェルトでした。
では、オランダ総督とはどのような地位だったのでしょう。
オランダ総督は軍隊に指揮権を持つ地位でした。すなわちオランダ総督=オランダ軍総司令官となります。
現在でもよくあるのですが、政治と独立した軍事の総指揮権を個人が所有するとどうなるでしょう?
そう、軍政による独裁です。
マウリッツは指揮権を利用して、議会を飛び越えた軍政を行うことが次第に多くなってきます。そうなると議会と対立することは明白で、ついに事件が勃発します。
マウリッツがオルデンバルネフェルトを追い落とそうと利用したのは宗教でした。
1618年当時カルヴァン派と教義の少し違う新教徒の一派であったアルミニウス主義を主張した派閥について、会議を開きアルミニウス派を粛清しようとしました。(ドルト会議。この会議自体は前総督の時代に行われてます。)
ドルト会議によってアルミニウス派は排斥され、マウリッツは、オルデンバルネフェルトがアルミニウス派の教義を支持していたことを利用し彼を追い落としにかかります。
翌1619年オルデンバルネフェルトはアルミニウス派を支持していたとして処刑されます。
こうして、オルデンバルネフェルトは政争の末に非業の死を遂げました。

忘れてはならないのは、オランダ総督よりネーデルラント共和国の成立に貢献したのは議会であったことです。
オランダの独立につきましては、こちらも簡潔にした記事ですが、http://dolmeke.blog11.fc2.com/blog-entry-60.htmlを参照にしてください。


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